福助足袋

トリビア

福助の名付け親ともいえる伊勢神宮

福助の名付け親ともいえる伊勢神宮

社名が「伊勢の神様が授けてくださった守護神・福助人形」から付けられているとおり、伊勢神宮は福助にとってゆかりの深い神社です。
もともと、創業者である辻本福松が、伊勢大神宮を尊崇し毎年お参りしていたため、それ以降も歴代社長を含む経営陣はお伊勢さんを参拝してきました。
昭和12年(1937年)の創業55周年記念式典には、なんと全従業員で伊勢参拝を行うほど。繋がりの深さはこれだけではありません。
伊勢神宮で使用されている白足袋。実はこれ福助足袋なんです。
もともとは福助が、皆様に使って頂けるよう、足袋を献納致しておりましたが、その品質の高さが認められ、現在もご愛用いただいています。

いつの時代も新しい福助のCM活動

いつの時代も新しい福助のCM活動

東京浅草に電飾広告を設置、足や福助に関する展覧会を日本全国で開催、新聞に日本初のマンガ広告を掲載…。
福助の広告は、いつの時代もアイデアにあふれ、見る人をあっと驚かせてきました。CMを大切にするその社風は、創業当時からのものでした。
明治20年(1887年)の福助のチラシには、今で言うロゴマーク(○に福の字)がすでに使用され、日本初の足縫いミシンの特許を取得したときには”手縫いにまさる機械縫いの足袋”というキャッチコピーで大きな成果を上げます。
その伝統は、戦後も続きます。昭和26年(1951年)には、日本で初めて民間ラジオ放送のスポンサーとなり日本初のCMを放送するなど、その勢いはとどまる処を知りません。なかでも、目を引いたのが、昭和25年(1950年)から上げられた福助人形型のアドバルーン。甲子園球場や海水浴場など、日本各地で空に浮かぶ福助が人気となり、その様子は全国の新聞でも取り上げられました。

ぴったりの足袋が見つかる秘密兵器!

ぴったりの足袋が見つかる秘密兵器!

足底のサイズだけ分かればいい靴下とは違い、ジャストサイズの足袋を買うには、幅、甲の高さ、足首の太さとさまざまなサイズが必要です。
とはいえ、甲の高さなんてどうやって測ればいいの…。
ということで、昭和51年(1976年)に登場したのが、自動足型測定器その名も「タビスコープ」です。
機械に足を入れるだけで、必要なサイズを自動で測定。
100パターンのサイズが揃う福助足袋のなかから、ぴったりの足袋が選べると人気に!当時の大横綱・若乃花にも愛用いただきました。

マンガを使った広告の元祖は福助!

マンガを使った広告の元祖は福助!

より多くのお客さまに最先端の技術を知ってもらえば、福助足袋がもっと人気になるはず!そう考えた、社長の辻本豊三郎は、工場見学を新聞広告で展開することを思いつきます。
とはいえ、文章で全てを説明すると、難しくなってしまう…。
わかりやすく、楽しく読んでもらう方法はないか?
そこで、思いついたのがマンガでした。
昭和2年(1927年)年、全国の新聞に当時の人気マンガ家・岡本一平が描いた「福助足袋の生ひ立ち見物」と題した広告が一面で掲載されます。
今でこそマンガを使った広告は当たり前ですが、実はこれがその元祖!ユーモラスで分かりやすい内容はたちまち大人気になります。
これ以降、いろいろな会社からマンガを使った広告が登場するようになりました。ちなみにこのマンガを描いた岡本一平は、日本を代表する芸術家・岡本太郎のお父さん!このとき16歳だった岡本太郎もきっとこのマンガを読んだことでしょう。

神様からのお告げ?で決まった社名

マンガを使った広告の元祖は福助!

福助は創業当初、“丸福”という社名でした。
ところが、明治32年(1899年)この名前がすでに他社によって商標登録されていたという理由で、社名変更を迫られます。
その翌年、新しい社名を何にするか頭を悩ませていた辻本豊三郎(後の2代目社長)が訪れたのが、予てから崇拝している伊勢神宮でした。
その帰り道。ふと立ち寄った古道具屋の奥に、心惹かれるひとつの人形を見つけます。それが、福助人形でした。これぞ、伊勢神宮のお導きと思った豊三郎は、社名を福助へと変更し、現在に至ります。

ようこそ福助へ。天皇陛下の工場見学

ようこそ福助へ。天皇陛下の工場見学

昭和20年代……。戦争の余韻がまだ色濃く残る日本。
敗戦で苦しむ国民を励ますために、昭和天皇は各地を巡幸されていました。
そんな折、福助の本社と工場に天皇陛下の御来訪が決まりました。
当時大阪には7000を越える工場があるなかで、天皇陛下がご訪問されたのはわずかに6工場。大変な栄誉であるとともに、絶対に失敗が許されないため、その準備は大変な苦労をともなうものでした。しかも、当時は物資がまだまだ少ない時代。限られたなかで、一生懸命おもてなしの準備をすすめたそうです。
とくに頭を悩ませたのが、陛下の控え室となった玉座(お席)。
万が一のことがあってはと、社員が3日3晩寝ずの番をして、万全の態勢でお迎えしました。その甲斐もあって、わずか35分の滞在でしたが御来訪は無事に終了。玉座として使用されたイスは現在も資料室に保存されています。

宣伝と販売、一石二鳥の片足足袋戦法!

宣伝と販売、一石二鳥の片足足袋戦法!

大阪府・堺で誕生した福助。
明治30年代後半にはいよいよ、大阪市内で足袋の販売をはじめます。
ところが、“福助”の名前を誰も知らない土地では、なかなか売れず大苦戦。
どうすれば福助足袋を知ってもらえるのか?そこで考えたのが“片足足袋戦法”です。片足だけを次々と大阪市内の家庭に投げ込み、投げ込まれた家は片足を買うだけなのに、半額で足袋が揃う!とあって、大喜び。
この宣伝が評判を呼び、福助足袋の名は、瞬く間に大阪市内に広がったそうです。宣伝をしながら、売上げも伸ばすこの戦法。
“損して得獲れ”を地でいく、たくましい商魂はさすが、なにわの商人!

生徒は社員、校長先生は社長!?

生徒は社員、校長先生は社長!?

ときは大正5年(1916年)。
福助足袋の足袋工場は、女子社員300人を超えるまでに大きくなっていました。
この頃はまだ日本が貧しい時代。女子社員の中には小学校中退者も多くいました。「事業は人なり!会社の発展のためには人を育てることが必要」というのが、当時の社長・辻本豊三郎のポリシー。
そこで、古い工場を改修し、造ったのはなんと小学校!社長自らが校長となり、国語や算術など、義務教育の授業を社員たちに教えました。
託児所を作る作らないで大騒動になる現代と比べると、なんともスケールの大きなお話じゃありませんか。